歴史のおもしろさ
西晋が天下を統一していた頃、都洛陽では、多くの貴族達が贅沢競争をしていた。
当時の上流階級は、厠(トイレ)に行くと、衣服を全て脱ぐという風習があった。上流階級の一人である石崇の家の厠では、煌びやかな服を着た侍女達が十数人も並んでいて、香を焚いて、仕立て下ろしの服を着せるというサービスをしていた。
そのため大抵の客は、恥ずかしさのあまり厠に行きそびれたり、たとえ行っても恥ずかしさのあまり、落ち着かない表情とかをしていたのであるが、後に東晋の重臣となった王敦だけは、全く動じる様子が無く、傲然としてサービスを受けたのである。
これを見た石崇の侍女達は、
「王敦殿は、将来きっと大それたことをするだろう」
と言い合ったという。
北魏の初代皇帝である道武帝拓跋珪は、鮮卑拓跋部の英雄であった。しかし、同時にとんでもない暴君という一面もあった。なぜなら、家臣達の過去のちょっとした過失は勿論、ちょっと服装が派手だったり、歩き方がすこし変だったりということでも、すぐ家臣を殺したからである。
もっとも道武帝に言わせれば、
「心に悪を持っているから、外見や態度に表れるのだ」
とのことであるが……。
道武帝の皇太子である拓跋嗣、後の二代皇帝明元帝は、生母の劉貴人を道武帝によって殺されていた。なぜ道武帝がこのようなことをしたのかというと、過去の王朝で、外戚が政治に干渉した結果、国の力が衰えたということが多々あるので、政治に干渉することを防ぐ「国家長久の計」として、劉貴人に死を賜ったのである。
嗣は、当然母の死に悲しみ、毎日泣いていた。このことを知った道武帝は激怒し、嗣に出頭しろと命じた。しかし嗣の側近は、
「今皇帝は、激怒しているのです。今出頭すれば、いかに太子とはいえ、あなたは皇帝に殺される可能性があります。そのため、暫く外に出ることで、災難を避けるべきです」
と主張した。
嗣は進言に従い、都の外に出た。これが結果的に嗣の命を救ったのである。
アメリカの学者でスミソニアン協会の会長であるサミュエル・ピアボント・ラングレーは、1890年代から、飛行機の研究を行なっており、1896年、模型飛行機を1500メートルの飛行に成功させた。
最初サミュエルは、自分の理論が証明できたことに満足していて、有人飛行機を作る気は全くなかったが、1899年に国防省が有人飛行機の開発を依頼したところ、サミュエルは有人飛行機開発をすることになった。
この頃、ウィルバー・ライトとオービル・ライトという自転車屋を経営している兄弟が、スミソニアン協会を尋ねているが、サミュエルは二人に、飛行機に関する資料を気前良く提供したのである。
それから幾許かの年月が流れ、サミュエルは「エアロドロームA」という有人機を完成させた。エアロドームAは、当時としては大馬力の52馬力のエンジンを積んでいた。
そして1903年10月7日、エアロドロームAは、ポトマック河畔で飛行実験を行なうが、尾翼を発射台に引っ掛けてしまい、すぐ墜落してしまった。2か月後の12月8日、再びポトマック河畔で実験を行なうが、またも墜落してしまった。
失敗の原因は、エアロドロームAの機体そのものであった。驚くべきことにエアロドロームAには、何と、車輪、フロート、方向舵、昇降舵、着陸装置といった操縦に必要な器具が、全く装備されていなかったのである。しかもエンジンは、むき出しになった操縦席の真後ろにあり、何かの拍子で機体が破損したら、エンジンがそのまま操縦席に突っ込んでしまうという可能性があるという、危険極まりない代物だったのである。サミュエルは、「飛行機は操縦するもの」という当たり前のことを、全く考えてなかったのだ。
完全な失敗である。
余談だが、サミュエルが失敗した僅か9日後の1903年12月17日、かつてサミュエルが飛行機の資料を提供した、自転車屋のウィルバーとオービルのライト兄弟が開発した飛行機が、キルデビルヒルズで人類初飛行に成功したのである。
ヴィレム・ホイセン・ファン・カッテンディーケは、オランダの海軍軍人である。かれは、江戸幕府が長崎に開校した、長崎海軍伝習所の教官として、日本にやって来た。
ある日ヴィレムは、長崎の市民に、
「もし外国が攻めてきたら、あなた方はどうするつもりですか?」
と質問すると、こういう答えが返って来たのである。
「外国と戦うのは、武士がやることです。我々町人は関係ありません」
これを聞いたヴィレムは、
〈日本人の最大の欠点は、武士以外の人間に国を守るという意識が無いことだ。これでは日本の将来は危ない。もし敵が長崎に上陸したとしても、かれ等は黙って見物をしているだけだろう〉
と思ったのである。
山内首藤氏は、先祖代々源氏に仕えてきた家系である。祖先の資通は、八幡太郎義家に仕え、しかもその息子である源為義の乳母の父でもあった。そのため源頼朝が兵を挙げると、頼朝は早速、当時の山内首藤氏の当主で、頼朝の乳母、摩々局の実子でもある山内首藤経俊に、頼朝軍に合流してほしいということを伝えた。
しかし経俊は、
「頼朝は流人の分際で、平氏と戦おうとするのか。今の頼朝が平氏を倒そうなどと言うのは、富士山と背比べをするようなものだ」
と頼朝の使者である安達藤九郎盛長に伝えた。そして経俊は、大庭景親と共に石橋山で頼朝を迎え撃ち、頼朝に対して矢まで放ったのである。
尚、これには後日談があり、後に経俊は捕らえられ、死刑になるところであった。だが摩々局は、頼朝に対して助命嘆願を行い、経俊は死刑を免れたのであった。
徳川慶喜は、明治30年に上京し、明治天皇に謁見した。その後慶喜は、第六天町(東京都文京区)に三千坪の屋敷を構え、そこで過ごした。慶喜はこの屋敷で、鶴を飼っていた。鶴は元気よく鳴いていた。
ところで、慶喜邸の隣に住んでいる人は伊沢氏といい、伊沢は、吃音矯正術を教えていて、多くの男女が伊沢の家に来て、日々大声を出していて、その大声は、鶴の鳴き声とは比べ物にならないほどうるさかったのである。
そんなある日のこと、伊沢は慶喜邸に行き、
「鶴の鳴き声がうるさい!!」
という苦情を言った。
このことを知った慶喜に仕えている家職は、
「よく苦情が言えた物だな。我が家に対して怒る心得があるのであれば、伊沢氏こそ、自分の家で多くの男女が大声を出していることを咎めるべきではないか!!」
と言うが、慶喜はこれを押しとどめ、
「鶴は我が慰みに飼っている。伊沢氏は、世のためにやっていることだから、咎めるな」
と家職に言った。
その後慶喜は、この鶴を動物園に寄付したのである。
漢の高祖劉季が崩御し、孝恵帝が即位するが、かれは若くして崩御。その後二人の幼帝が立つが、その間、孝恵帝の母である呂雉(呂后)が実権を握っていた。
ある年のこと、匈奴の単于は、呂后に不遜極まりない手紙を送った。これを見た呂后は激怒し、将軍達を集めた。すると呂后の妹婿でもある樊噲が、呂后にこう言った。
「それがし、十万の兵をもって匈奴を打ち破って見せます」
すると周りの将軍は皆、
「その通りです」
「樊噲様を匈奴征伐に」
と言ったが、一人だけ異論を唱えた物がいた。季布である。
「樊噲を斬るべし!高祖皇帝でさえ、三十万の軍で匈奴と戦ったにも関わらず、逆に匈奴に包囲されてしまったのです。まして十万の軍で打ち破るとは、大言壮語も度が過ぎますぞ。秦末から、多くの兵乱があり、その傷は未だ癒えていません。それなのに樊噲は、このようなことを言う。これはお上に媚を売り、天下を動揺させる行為ですぞ」
他の将軍は、瞬く間に顔色を変えた。皇帝劉氏、そして呂氏一族の姻戚でもある樊噲に異論を唱えたから、誰もが季布が死刑になると思ったからである。
しかし呂后は怒らなかった。それどころか会議を閉会し、その後は二度と、匈奴討伐の話をすることは無かったのである。